out of control  

  


   12

 いよいよきな臭くなってきたな……。
 アイクと飯を食いながら今後のことを話して、俺は一度村の外に出てウルキを呼んだ。
 まだ近くにいたんだな。しばらく掛かるかと思ったがすぐに現れて、今までの流れを話し合った。
 こんな時にはやっぱり幼馴染ってのがものを言う。お互いにいらん遠慮がなくて助かるぜ。
 まあ、俺が間もなく発情期に入ること、入ったら恐らくネサラに襲い掛かりそうなことを言った時にゃ、思い切り深いため息をついて無言で首を横に振られちまったけどよ。この辺は遠慮がなさ過ぎて困るところかもな。
 とにかく、ネサラの化身の力を取り戻すってのは最優先事項だ。アイクたちはこのままデイン王へ事情を説明しに、俺とネサラはベグニオンへ行って宰相に会うことになった。

「……俺はべつに一人でも困らないんだがね」
「文句を言うな。リュシオンだって本当なら自分がいっしょに来たかったんだぜ」

 たった一日やそこら飛ばなかっただけなのに、いざ出発となって翼を出せた開放感はでかい。やっぱり俺たちは空を飛んでこそだ。
 なるべくベオクの目に留まらないよういつもより高い位置を飛びながら、ネサラはもう何回目かわからない文句をぼやく。
 こいつがリュシオンの心配をしてるのはわかるが、かといって化身できねえネサラを一人で放り出すなんてできるわけねえだろ。

「それより、寒さはどうだ? やっぱりあの外套、借りて来た方が良かったんじゃねえか? なんだったら俺がひとっ飛びするぜ?」
「大丈夫だ。歩く分には便利だが、飛ぶとなったら風の抵抗が大きくて余計に体力を消耗する。心配しなくてもそこまでやわじゃない」
「……それならいいけどよ」

 口調は平然としてるが、顔色はいつもより白い。無理をしてるのは見てわかっちまうんだが、それを言うとまたへそを曲げるだろうしなあ。
 俺にできることと言えば、不自然じゃねえ程度に前を飛んで、少しでも風を凌げるようにしてやる程度だ。
 あとは、強引に体温を上げるための酒を飲ませることだな。俺たち鷹の常備品、傷薬を兼ねた強い蒸留酒だから味は悪いが、効果は保障する。
 ネサラはだいぶ嫌がったが、自分でも飲まなきゃ不味いぐらいのことはわかってるんだろう。三度目の勧めには本当に渋々従って、なんとか喉に流し込んだ。
 酒だけだと喉や腹の中が灼けちまうから、本当はチーズか山羊なり牛なりの乳があればもっとよかったんだが、ないもんはしょうがねえ。
 越えた山はいくつだったか。低い山はそのまま見下ろして越えられるが、山頂が雲より高くなると俺はともかくネサラは迂回させなきゃならねえ。
 途中で何度か休憩がてら酒を飲ませて、冷え込む夜の砂漠越えはきついからな。グラーヌ砂漠は避けて、この夜はタナス領にあるきこり小屋で過ごし、次の朝俺たちは改めてシエネに向かった。
 俺としちゃ木こり小屋よりネサラの身体が楽なんじゃねえかと思ってオリヴァーだったか? いつの間にかこっち側に寝返ってたあいつの館にでも泊まれねえかと思ったんだが、ネサラが嫌がるからそれは止めた。
 まああいつも元老院だったんだ。リュシオンのことだけじゃなくて、いろいろあるんだろうさ。
 俺はあいつも始末したかったところだが、当のネサラやリュシオンまで俺を止めたから、それは堪えたんだけどよ。
 あいつの依頼でキルヴァスの飢饉が何度も救われたらしい。くそ、だからそんな輩の手を借りるぐらいならどうして俺に言わなかったんだって気持ちは今でも変わらねえが、過ぎたことはしょうがねえからな。
 ここまで来たらもうシエネは近い。日差しが出て少し暖かくなったところをゆっくりと飛んで、昼を少し過ぎたころ、ようやくベグニオンの王都、シエネが見えてきた。
 春にはまだ遠い高い空の下で、ベオクでも随一に栄えてる都は、相変わらず磨いたような白さで眩しいほどだ。

「『大陸におわす白き貴婦人』か……」
「なんだ、そりゃ?」
「とある吟遊詩人がこのシエネを謳った詩だ。それを知ったばかりのころは、その裏側の汚い部分ばかりが目に付いてムカついたもんだが、今はそうでもないな」

 元老院に飼われていた頃か。……そりゃそうだろう。

「よせよ。昔の話だ」
「わかってるさ。ほら、降りようぜ」

 俺も悪い癖だな。ネサラがそんなことを言うもんだから、つい頭を撫でちまった。
 早く本当に「昔の話」になればいい。だからってあったことが消えてなくなるわけじゃねえが、俺もそう思う。

「北門から入るんだな?」
「そうだ。西門だと面が割れてるからな。身分が知れたら面倒だから、商売で来たセリノスからの旅人ってことにしておくぞ」
「おう、いいぜ」
「セリノスやガリアからの旅人が多い西門と違って、北門は反ラグズ思想の強い衛兵がいるかも知れないが、くれぐれもケンカはするなよ。後で面倒なことになるからな」
「わかってるって」

 整備された公路に降り立つと、近くを歩いていた商人風の男がびくつきながらこちらを伺う。
 なるほど。この辺りは旅人もラグズに馴染みの薄い連中が多いらしいな。
 それでも男に付き従っていた用心棒らしい若い男が剣の柄に手を掛けたのは一瞬で、俺たちが普通の旅人だと見て取ったあとにはすぐに剣呑な雰囲気を和らげた。
 まあ視線だけは油断なくこっちを伺ってるが、問答無用で切りつけられていた時代を考えるとこれでも上出来な方だ。

「これはどうも。ダルレカからですか?」
「え…え!? あ、はい。そうです。私がダルレカから来たなんて良くわかりましたねえ」
「腰に真新しい木彫りのフクロウの飾りをつけてらっしゃったので。それはダルレカに伝わる旅のお守りでしょう。とても良い出来だ。あの辺りは雪深くて交通もよく遮断される。お見受けしたところなにか商いで来られたようですが、ダルレカからではさぞ大変だったでしょう?」

 相変わらずよく見てやがるな。にこやかなネサラに用心棒と顔を見合わせた商人風の男は、今度は打って変わって打ち解けた雰囲気になって答えた。

「これは十歳になる娘が私の無事を願って彫ってくれたものなのですよ。ええ、徒歩ではとても降りられませんから、歩ける場所まで領主様ご夫妻が騎竜に乗せてくださったのです。私はデインの家具の仲買いをしておりまして、こちらの貴族の方から急な注文が入りましたのでね。それでシエネまで伺うところなのですよ。あなた方はセリノスですか?」
「はい。仕事でデインの方面へ行った帰りです。私どものところはなにぶんできたばかりの新しい国ですから、翼を活かした特急運送の傍ら、こうしてとにかくご挨拶だけでもと思って文字通り飛んで回っている次第です。デインの家具は品質が良いことで有名ですから、いつかセリノスにもぜひにと思っているのですが」
「ははは、デインは冬が長い分、家に閉じこもる時間が長いですからな。それで家具作りが発展したのです。それにしても、お見受けしたところ、お連れの用心棒といい、ずいぶんご身分のある方でしょうに……。そのようなやんごとない方が直接飛び回らなくてはならないとは、本当に忙しいのでしょうなあ。ええ、もちろん私どももいつかセリノスと取引できればと願っておりますとも」

 ネサラと俺をしみじみと見比べて用心棒呼ばわりされたが、もちろん頭には来なかったぜ。むしろ、なかなか人を見る目があるヤツだなんて感心したもんだが、ネサラは一瞬固まって慌ててそれを訂正しようと口を開いた。

「ありがとうございます。ですがその、俺は」
「まったくこの方は毎日毎日それはもう働き過ぎなぐらいで、俺も困ってますよ。だからこそせめて旅の道中ぐらいはかすり傷の一つも負わせまいと、俺もがんばれるんですがね」
「そうでしょうとも。やはり上に立つ者はそうでなくては。聞くところによるとセリノスの鳥翼王は戦場ではかのゼルギウス将軍と互角に戦い、政でも豪快奔放でありながら民のことをよく考え、なかなか思いやり深い方であるとか。いやはや、私どものところの王は先代があの狂王、此度の王もやはりあの狂王の息子らしく、国を取り戻しても戦争にしか興味がないような方ですからな…っと、これは口が過ぎましたな。どうかお忘れください」

 堂々と胸を張って言った俺にネサラは目を剥いたが、文句をつけられる前ににこにこと頷いた商人の言葉に、今度は笑っていた俺も神妙な表情になっちまった。

「大丈夫です。私はなにも聞いておりませんよ。……しかし、そうですか。ペレアス王は穏やかな人となりだと伺っておりましたが」
「近しい方々はそうおっしゃいますが、どこまでが本当やら……。あの王の命令で死んだ者はあまりにも多い。息子や夫、恋人を失った家族や女たちはとてもそうは思えませんでしょう。農村部では既に田畑を耕す手が足りなくて廃業する家も出始めておりますからねえ」
「……あの戦争は元々ベグニオンとラグズ間で起こったはずなのに、確かにデインにも大きな被害を出しましたからね」
「あ、いえ! 被害が大きかったのはラグズ側もでしょう。確かにデインは反ラグズ思想が根深いということはありますが、だからと言ってあれほど国力が弱った時期に他国間で起こった戦争を口実にして、ラグズの方々を駆逐しようなどと正気の沙汰とは思えません。それだけでもあの方は確かにあの狂王の嫡子だと我々商人は言ったものです。我々にとっての敵はラグズではなく、商売の邪魔をする者ですからね」

 そこまで言ってややせり出した腹を撫でると、商人は整えた口ひげを摘んで首を振る。

「いや、これは……詮無いことを申しましたな。このようなこと、デインではとても口に出来ませんので少々口が過ぎました。私どもは鳥翼族の方々の特急運送には非常に期待しております。これからもどうぞよしなに」
「こちらこそ。一番友好を結ぶのが難しいと思われたデインにも良い方々がいる。そのことは我が王にも報告いたします。ベオクの友人が多い王はきっと喜ばれるでしょう」
「そうですか。そうだったらうれしいのですが。それでは、私どもはお先に失礼します。また機会がありましたら今度はぜひ食事でも」
「ええ。私もまたお会いできることを願っています」

 最後ににこりと笑った商人は、おとなしく後ろで待っていた用心棒の男を連れて衛兵が出てきた北門へ歩いて行った。
 あの用心棒の方は俺と話をしたそうだったな。用心棒同士、気安く思ったんだろうさ。別れ際に俺を見て小さく笑ったのが印象に残ってる。
 童顔なのか本当に若いのか、笑うとまだガキっぽっかったな。立ち姿といい歩き方といい、隙はねえから腕は確かなんだろうが。

「……………」
「どうしたよ? そんなに俺が用心棒じゃ頼りねえか?」
「その話じゃない。デインのことだ」
「あ? ……ああ、まあな。下の者から見りゃ今のペレアス王の評価はあんなもんだろ。上の方でなにが起こってたかなんざわからねえんだからよ」
「それはそうだが、それにしても商人にそっぽを向かれるのは不味いぞ。ベオクってのは大抵が王族に対して特別な畏怖の念を持ってるものだ。それなのにあの口ぶりにはそんなもの欠片もなかった。ベオクの国の基盤を支えるのは王でも兵でもない。経済を担う商人だ。ただでさえ政情が不安定なのに、このままじゃデインは民衆から崩れかねない」

 そういや、オルリベス大橋のたもとの村もきな臭かった。
 かといって俺たちがどうこう口出しするような話でもねえし、結局はあの王が自分でケリをつけなけりゃならねえことだ。

「そんなもん、崩れたら崩れたでまたどうにでもなるだろうが。王があっての国じゃねえ。民があっての国だろ」
「それはあんたがラグズだからだ。この前も言っただろう。この冬デインが冬を越せるのは他国からの援助物資のおかげだ。だが、田畑を耕す働き手が減ってただでさえ厳しい暮らしをしているところに、そうなって誰が田畑を守る? 今でさえ食い詰めた傭兵や山賊が男手の少ないデインを恰好の逃げ場所にしてるんだぞ? 厳しい冬が終われば春だ。連中が暴れ出すには絶好の機会になる。もしそんなことになったら、今デインにいる民が流民となっていっせいにあふれ出しかねないだろ」

 話の規模が大きすぎてどうもぴんと来ねえなあ。黙ったままの俺の顔を見てそれがわかったんだろう。
 ネサラは舌打ちでもしたそうな顔でため息をついて続けた。

「だから、もしそうなったらその流民の行き先をどうするかって問題になるんだよ。ガリアまでの道はベオクには厳しい。だがセリノスは? 自分の国の民は自分でなんとかしろって言いたくても、王制が崩れたあとなら責任の追求もうかうかできやしない。クリミアとベグニオンだけで受け入れが終わればいいが、友好条約を結んだばかりの今じゃそういうわけには行かない。相当の援助物資を出すなり、最悪セリノスにベオクの流民を迎えなきゃならないかも知れん。ただでさえ種族統合でごたついた時期に、そんな面倒はごめんだ」
「なるほどな。そういうことか」
「頼むからそれぐらいのことは自分で考え付いてくれ。俺は外交官だ。国を空けることの方が多いんだぞ?」
「わかってるって。すまねえな。でも、おまえがいてくれて本当に助かってるんだぜ」
「そんな世辞はいらん」

 俺としちゃ、心から言ったつもりなんだがな。ネサラはぷいと視線を外して俺たちを手招く衛兵を見ながら懐の通行証を取り出した。
 流民か……。一応、考えておいた方がいいだろうな。
 ペレアス王はなんとしても国を立て直す気持ちがあるようだが、気持ちだけでどうこうできるほど国づくりってのは甘くねえ。
 あの女神との戦いの後もずいぶん悩んでいた様子だったし、余裕ができた時にでも一度顔を見に行くか。

「よし、確かに。通って良いぞ」
「どうも。行くぞ」
「おう」

 衛兵は若いのとベテランの二人だ。ベオクではもう壮年といって良い年齢の男の方は胡散臭そうに、若い方は好奇心一杯の表情で俺たちの風体を改めると、ようやく銅製の大きな門を開いた。
 やれやれ、一仕事だな。以前は好きに街の中に降りられたもんだが、友好条約を結んだことで行き来にいちいち門を通らなきゃならねえのが面倒で仕方がない。

「シエネはやっぱり落ち着いてるな。治安も良さそうじゃねえか。さすがはベグニオンってところか」
「女神との戦いもあの塔と周辺だけだったし、結局ここは一度も戦地になったことはないからな」

 空から見て真っ白だった街の中は、意外と雑然として見えた。ここらは天気が良いこともあって所狭しと露店が並んでる。
 食い物の店は向こうの通りだな。道は狭くねえんだが、どうも入り組んだ作りだから動きにくいぜ。

「クリミアの王都は城を中心にどこを見ても道がまっすぐで通りやすかったんだがなあ。この辺りは不便だな」
「メリオルの作りの方がおかしいんだ。あれじゃどこから攻めても簡単に王城まで敵が着く。まあそれだけクリミアが平和だった証拠だな。王城や大神殿への道はもっとわかりにくいぜ。王都の中じゃ特急運送の札をつけていない限り飛行は禁止だ。くれぐれもイライラして飛ぶなよ?」

 なるほど。そういうことか。
 生憎だが、そこまで短気じゃねえよ。にやりと笑って念を押してきたネサラに言い返そうと口を開いたところで、どこからともなく女の声が響いた。

「きゃー、洗濯物がッ! ちょっと、そこの大きな鷹のお兄さん! ひとっ飛びして取っておくれよ!」
「………ご指名がある時は飛んでもいいんじゃねえか?」

 真面目な顔をして訊くと、がっくりと項垂れたネサラは額を押さえて俺の胸を押し、無言で自分が行くと素振りを見せた。
 だがまあ、せっかく名指しされたんだしな。ここはやっぱり、俺が行かなきゃならねえだろ。

「あ、おいっ」
「飛び収めだ、飛び収め」

 今日はちょっと風が強い。また飛ばされる前に見つけなきゃならねえが、さて、その洗濯物ってのはどこだ? ばさりと翼を広げて飛ぶと、集合住宅らしい二階建ての大きな建物の窓の一つから中年の女が俺を手招いていた。

「ああ、良かった! ほら、あそこの木にシーツが引っかかっちまったんだよ。すまないね。こんなことで呼んじまって」
「いや、かなり高さのある木だからな。あんたが自分で取ろうとしたら骨だろう。ちょっと待っててくれ」

 女が指した方を見ると、金物屋の近くにある大きな木の枝にひっかかってはためくシーツがあった。あれだな。
 ネサラの言う札をつけてないからだろう。下から俺を見つけて驚いたり眉をひそめたりする連中もいたが、俺がそのシーツを掴むと納得した様子で表情が和らいだ。

「こいつだな?」
「そうそう! ああ、助かったよ。本当にありがとう。あんた、いい男だねえ」
「どういたしまして。俺だけじゃなくて、声を掛けられたら皆このぐらいのことはするさ。遠慮なく言ってくれ」
「あたしだけじゃなくてみんなもう何回も頼んだけど、その都度鷹や鴉の人は笑って取ってくれたよ。本当に助かってるんだ」
「そうか。それならよかった」
「じゃあね、鷹の兄さん。気をつけて行っとくれ」

 シーツを受け取った女はにこにことそう言って手を振った。
 ……あの女だけじゃねえな。昔のようにもう俺たちを見ただけで騒ぐベオクはほとんどいねえ。ネサラが考案した鳥翼族の特急運送が浸透してるってのもあるだろうが、それよりも驚くのはこのベオクたちの順応力の高さだ。あっという間に自分の置かれた状況に慣れちまう。
 もしかしたらベオクと友好を結ぶことにいつまでも遺恨と疑念を残すのは、俺たちラグズの方になるかも知れねえな。

「待たせたな」
「待ってない。……何回も言うが、軽々しく使い走りのような真似はするな。俺がいる時には俺が動く。本当に、癖になるから言ってるんだぞ?」
「はいはい、わかってるって」

 ネサラのこの説教ももう聞き飽きた。王だからっていつもいつももったいぶって踏ん反り返るばかりが能じゃないだろうに、つくづくこいつのこういうところはラグズよりベオク寄りだな。
 それから俺は上から見ても入り組んだシエネの市街地を、ネサラに先導されるまま中心部に向かって歩いた。
 途中何度か見つけた美味そうな匂いのする屋台には一度も寄らず、だ。残念なことこの上ねえな。
 それで、すぐに城かマナイル大神殿に行くんだろうと思ったが、次にネサラが向かったのは立派な天馬の彫刻が一対で守る優美な兵舎の門だった。

「天馬騎士の兵舎か? なんでまた」
「天馬騎士団の隊長から話を繋いでもらう。本当なら先触れを出さずに直接来ていい相手じゃないんだ。こんなことは避けたかったんだがな」

 そう言ってため息をついたネサラが固く閉ざされた門の向こうへ声を掛けると、すぐに若い娘が出てきた。
 ここには男の兵はいねえんだな。門番らしいその娘も天馬騎士見習いの装束姿だ。

「どうだ?」
「身分証を見せて副長か隊長に連絡を取ってもらえるように頼んだ。しばらくかかるかも知れない。腹が減ってるならあんたは好きにしていいぜ」
「ここまで来たんだ。最後まで付き合うさ」
「………勝手にしろ」

 さすがに呆れたのか、ネサラはもうそれ以上の文句を言わずにぷいと視線を兵舎に戻す。
 練習場もあるんだろうな。中から威勢のいい声が聞こえてくるし、時々天馬のいななきや羽音も聞こえる。
 職人が丹精を込めて作ったんだろう、細やかな蔦や花の彫刻が施された青銅の門扉まで掃除の手が行き届いてるのに感心しながら待っていると、ほどなくして中から黒い甲冑を着た短髪の天馬騎士が出てきた。

「これは…! お久しぶりでございます。一体どうし……」

 天馬騎士団の副隊長、タニスだったな。
 俺とネサラの顔を見て文字通り驚愕したらしいタニスが片膝をつきかけたところでネサラがそっと人差し指を自分の唇に当て、すぐに意味を察したらしい。こくりと一度深く頷くと、タニスは落ち着いた様子で後ろから慌ててついて来た門番係らしい娘に何事かを耳打ちした。

「どうぞ、お入りください。このような汗臭い場所ではありますが、一応客室もございますゆえ」
「心遣い、感謝する。急にすまないな」
「いいえ、さあ、そちらの方も」
「おう、ありがとうよ」

 滑るように門扉が開いて、マントを翻したタニスが歩き出した。やっぱり騎士だな。足取りは速く軽やかで、運動といえば乗馬かダンスをたしなむ程度の貴族の娘とは全く違う。

「こちらです。私かシグルーン隊長をとのことでしたので私が参りましたが、隊長はただ今王城におられますゆえ、必要でしたら使いを出しますが」
「いや、あんたでいい」
「わかりました。それでは、お話を伺う前にまずはおくつろぎいただきましょう」

 タニスに案内されたのは、兵舎の奥にある部屋だった。それなりの貴人も来るらしいな。扉も丁寧に木目を選んだらしいマホガニーだったし、部屋の内装もなかなかのものだ。
 ソファに敷かれた毛皮も手入れが行き届いていて、俺に続いて腰を下ろしたネサラも少しくつろいだ様子だった。

「さて、上手く事が運びゃいいんだがな」
「……どうだろうな。外交官の俺でも非公式な訪問は問題になりかねないのに、あんたまでいるんだから」
「来ちまったモンは今さらだろ」
「あんたは単純でうらやましいね」
「おまえも見習え」
「断る」

 思い切り嫌そうな顔をしたネサラにちょっと笑ったところで、扉がノックされた。先に入ってきたのはタニスだ。後ろから銀のワゴンがついて入る。
 あまりこういったものにゃ詳しくねえ俺が見てもかなりの品だとわかるカップとソーサーが大理石のテーブルに置かれ、焼き菓子を添えて良い香りのする紅茶が注がれるのを待って、ようやくタニスが口を開いた。

「お待たせいたしました。お話を伺いましょう」

 給仕の娘は退室した後だ。この辺りはさすがだな。

「本来ならば先触れを出してから伺うべきなのに、いきなり来てしまってすまない」
「いえ、なにかあったのですか? 鴉王だけではなく、鳥翼王様までおいでとは……」
「俺がここに居合わせたのは偶然みたいなもんだ。実は、ペルシス公に会いたくてな」
「宰相に……ですか?」
「ああ。頼めねえか?」

 ネサラが言うより早く俺が言うと、タニスは目を丸くしてしばらく黙った。まあ、そりゃそうだろうな。
 一国の王がいきなり自分の国の宰相に会わせろなんてやって来たんだ。「はいそうですか」ってわけには行かねえだろうさ。

「なにやら厄介なことがあったようですね。わかりました。では、まずサナキ様にお話してまいりましょう」
「あ? 皇帝にか?」

 おいおい、その方が大事(おおごと)なんじゃねえのか?
 驚いてタニスを見ると、タニスは整ってるはずなのに女っぽい線の細さが欠片もねえ顔ににやりと不敵な笑みを浮かべて言った。

「非公式と言えど、せっかく鴉王がおいでになったのです。サナキ様にお伝えせずペルシス公に先に会わせたなどと知られては、私の首が危なくなりますゆえ、どうぞご理解のほどを」
「……相変わらずお守りは大変そうだな」
「それは、お互い似たようなものではありませんか?」

 おいおい、どういう意味だよ?
 呆れたようにため息をついたネサラに言うと、タニスは残りの茶を飲み干して立ち上がった。

「それでは申し訳ございませんが、今しばらくお待ちください。すぐに知らせて参ります」
「わかった。頼む」
「はっ」

 黒いマントを翻して颯爽と出て行く後姿を見送って、ネサラは深い息をつきながらソファに沈み込む。
 神経質そうな指先が一度持ちかけたティーカップを放して、ゆっくりとこめかみを押さえた。

「どうした? 頭でもいてえのか?」
「……まぁね。気分の問題だ。身体には問題ない」
「よっぽどこの街は居心地が悪ぃんだな」
「悪いなんてものじゃない。仕事でもなけりゃ来たくはないね」

 驚いた。まさか素直にそんなことを言うなんてな。
 ちょっと意外な気持ちで物憂げな横顔を見ていると、ネサラはそれでやっと自分の台詞に思い当たったように口元を押さえ、ぽつりと呟く。

「忘れてくれ。今のは外交官として失格だった」
「気にすんな。誰だって苦手なことはあるさ」

 俺だって本当は、こいつにとって居心地の良くねえ場所を選んでわざわざ行かせようとは思わねえよ。
 もっとも、ベグニオンは特に狸ジジイが多いからな。どうしてもネサラが外交の要になっちまうのは仕方がねえんだが。

「ティバーン?」
「ちょっと待ってろ」

 そう思いながら立ち上がって、俺は大きな窓のカーテンを引いた。
 さっきからうるせえ気配がしてたんで、一応様子を見ておくかと思ったんでな。

「きゃあ!」
「ご、ごめんなさーい!」

 獣牙族ほどじゃないが、俺たちの耳はベオクよりは数段聞こえがいい。妙な気配を感じると思ったら、案の定だ。
 集まっていた数人の小娘がカーテンが開いたのに驚いて、蜘蛛の子を散らすように逃げちまった。

「ったく、天下のベグニオン聖天馬騎士団が覗きなんかすんなよ」
「若い娘は噂好きだからな。肝心の話をしている時はいなかったし、気にしても仕方がない」
「どこでもあの年頃の娘は似たようなモンか。まったく、鴉王サマは人気者だな?」
「はン、翼が生えた男が珍しいだけだろ」

 ネサラは興味なさそうに冷めた茶を飲むが、それなら俺や荷運びの連中だって気になるはずだ。
 そういや、門番の娘と給仕の娘もちらちら見てやがったな。
 俺もベオクと付き合いができて知ったんだが、どうもベオクの娘はいかにも力強い筋骨隆々の男よりも、ネサラやクリミア女王の夫になった騎士の、ジョフレだったか。こんな感じのちょっと線が細い色男を好むらしいな。
 舞踏会で良く貴族の娘がダンスに誘ってきて困るとぼやいていたが、この様子を見る限り、好奇心だけじゃなさそうだ。

「なんだ?」
「この国じゃちょくちょく舞踏会があるそうだが、俺も一度ぐらい顔を出してみてえと思ったんだよ。なかなかダンスが上手いらしいな?」
「踊るといっても、ワルツとカドリールぐらいだ。社交界じゃただ話をするにも踊れなかったら不便でね。ただ踊るだけならそんなに難しいものでもない。あんたでもすぐに覚えるさ」
「冗談じゃねえ。俺だったら面倒になって相手を振り回して終わりだろうぜ。……しかし、じゃああれか。そんなパーティーだとあのタニスも着飾って踊ったりするのか?」

 下手な男より男らしいらな。想像がつかねえ。
 そう思って首をかしげたんだが、ネサラはなにか思い出した様子で小さく笑い、落ちてきた前髪をかき上げながら言った。

「あぁ、踊るね。ただし騎士装束のままで、男性パートをな。タニスは凄いぞ。そこいらのドラ息子じゃ歯が立たないぐらいの名手だ。貴族の娘たちにも絶大な人気がある」
「ほお、そりゃ面白え。おまえはタニスと踊らなかったのか?」
「成り行きで一度踊ろうとしたことはあるんだが、お互い男性パートを踊ろうとして駄目だった。どうやら女性パートは踊れないらしいな」
「いかにもっつーかなんというか……目に浮かぶぜ」
「そうだろう?」

 本人がいたら目を剥いて怒るかも知れんが、この話でひとしきり笑った後、噂をすればなんとやらだ。扉の外にタニスの気配を感じた。
 ずいぶん急いでくれたようだな。

「お待たせいたしました。……おや、なにやら楽しそうですな」
「あぁ、ちょっと思い出すことがあってな。それで、都合はついたのか?」
「はい。お二人ともお会いになるそうです。門番には話を通してございますゆえ、私の天馬で直接王城へ参りましょう」
「わかった。手間を掛けたな」
「なんの、これしきのこと」

 そう言って力強く笑った顔は、確かにお姫さんを守る騎士さながらの凛々しさだ。ベオクの男は気の強い女が苦手な連中も多いそうだが、俺なら強い風が吹いたぐらいで倒れそうな女より、こんな風に躰にしっかり背骨が通ってる女の方が絶対に良い。
 兵舎を出ると、騎士見習いらしい娘がタニスの天馬の手綱を握って待っていた。
 この娘はネサラよりタニスにご執心らしく、赤くなりながらタニスに手綱を渡す。からかいでもしたら泣かれちまいそうだ。


「ご苦労」
「は、はい。お客人方、副隊長も、どうぞお気をつけて……」
「うむ」

 膝をついて見送る娘にネサラに倣って片手を上げて応えると、俺は天馬の羽ばたきに合わせて飛んだ。
 俺たちほどじゃねえが、天馬もなかなか速い。あっという間に兵舎だけじゃなく、予想よりも広い訓練場まで見渡す高さになる。
 シエネの中心部、優美な白亜の大神殿の奥にある王城を目指しながら、タニスが声をひそめて言った。

「実は、鳥翼王が来られていることはサナキ様と隊長以外には伝えておりませぬゆえ、正式な歓待ができません。鳥翼王様には大変申し訳ないのですが……」
「気にするな。さっきもネサラの用心棒に間違われたところだ。その方が俺も都合が良い」
「用心棒! なるほど。言われてみれば確かにそのように見えなくもない。良い隠れ蓑になりそうですね」
「俺もそう思うぜ。だから、あんたも俺に対してはかしこまった口調はいらねえ。仮にも聖天馬騎士団の副隊長が外交官の護衛相手におかしいだろうが」

 背中にネサラの呆れた視線を感じたが、そんなものは気にしねえ。
 俺がそう言うと、タニスは「ふむ」と頷いた。

「それはいかにも。では、そういう応対で参りますぞ、用心棒殿」
「おう、そうしてくれ」

 正式な場だったら、我慢もするさ。だが、やっぱり俺はベオクの身分制度なんだのの仕来りがどうにも面倒で仕方がねえ。この辺りはアイクも似たようなもんだな。
 もっとも、あいつの参謀はネサラみてえにそれを不満に思ったりはしてねえだろうが。
 タニスは正面を避けて大きく左から迂回すると、王城の裏門近くから中に入った。
 ここは大きな噴水と花園が見事な皇帝のためだけの庭だ。

「よう参ったな、鴉王! それに、鳥翼王も!」
「今日の俺はこいつの用心棒だ。そういうことで頼むぜ」
「ほう、用心棒か。それは似合いじゃのう」

 驚いた。本当にベオクの成長は早ぇな。ついこの間までガキだったくせに、花壇の陰から出てきて笑った皇帝サナキは背が伸びて、心なしか顔つきも大人びていた。
 凛とした大きな目と赤い唇、紫がかった黒髪も艶やかで、そろそろ男どもの心をくすぐりそうな色気が漂いはじめやがった。

「お久しぶりです。皇帝陛下。この度は不調法なことをいたしまして大変申し訳なく、心からお詫びを……」
「やめぬか! わたしはそなたに膝をつかれるのは好かぬ!」
「……そう言われましてもね」

 だが、中身は変わらんな。
 前に降り立って優雅に膝をついたネサラに顔を真っ赤にして怒り出し、この言い草だ。
 別嬪の隊長殿も後ろで笑ってるし、タニスは笑いながらも呆れているし、俺は面白いんだがネサラは困った様子で中々膝を上げようとはしなかった。

「いやだと言ったら、いやじゃ! 本当だったらわたしに仕えるはずじゃったのに、勝手にセリノスの外交官になどなりおって……それだけでも無礼千万じゃろう!?」
「それについては、反論のしようがありませんね。わかった。それなら、いつものように話そう。これでいいのか?」
「うむ。よい! やっぱり鴉王はふてぶてしくなくば似合わぬ」

 これには俺も笑った。立ち上がったネサラが横目で睨んできたが、本当のことだからいいじゃねえかよ。

「サナキ様。お戯れはそのくらいになさいませんと……。鴉王は大切な御用がおありでおいでになったのですから」
「そうですぞ。その用が終われば、鴉王も少しは遊んでくれますでしょう。なにせ再三の『遊びに来い』とのお誘いも断り続けてやっとの来訪なのですから」

 しかし、なんだかんだ言っても、タニスはサナキが大事なんだな。
 シグルーンはああやって宥めてくれるが、タニスの方はしっかりと念を押してきやがる。しかも、ネサラじゃなく俺の方を見ながらだ。
 ああ、はいはい。ネサラがサナキの誘いに乗れなかったのは、俺がネサラに仕事を押し付けていたからですよ。…ったく、わかってんだったら最初から俺に言えってんだよ。なあ?

「べ、べつに、遊んでもらわねばならんほどわたしも幼くはないが……それは確かにそうじゃな。そなたらと違うてわたしはベオクじゃ。鴉王よ、そなたらの瞬き一つの間にもわたしはおばあちゃんになるのだぞ?」
「いや、さすがにそこまで早くはないだろう? ……でも、ずいぶん背が伸びたんだな。驚いた」
「そうであろう?」
「あぁ、今回はちょっといろいろとあって急がなきゃならないが、この次来られた時にはゆっくりさせてもらおう。もちろん、ベオクにとってもそれほど時間を空けずにだ。約束する」
「うむ。…これ、わたしは子どもではないぞ」

 本当だったら、斬り捨てられても文句を言えねえ不敬だろうが、ネサラがサナキの頭を撫でても、親衛隊二人の手は動かない。
 サナキも口ではああ言いながら、まるで母猫に舐められる仔猫のようにネサラの手をくすぐったそうに受け止めて、得意げに目を細めて笑った。
 穏やかな風が手入れの行き届いた庭の緑を撫でて、噴水の作る虹がつかの間二人を包み込むように揺らぐ。
 優しい風景だった。ラグズとベオクが並んでるとは思えねえほど暖かい光景で、ちょっとだけな。
 まだようやく交流が始まったばかりだってのに、本当にラグズとベオクはこのまま仲良くやって行けるんじゃねえかとか……。そんな想いが一瞬、俺の胸に過ぎったほどに。

「さあ、二人とも、来るが良い。セフェランに用があるのであろう?」
「おう、ネサラ、行こうぜ」
「………」

 サナキが小さな手でネサラの手を引きながら俺を呼ぶ。
 なにやら思案深げなネサラを促すと、俺はサナキとシグルーンに続いて広いテラスから白い奥の宮の中に入った。
 神使であり、皇帝でもあるベグニオンの娘たちが代々過ごしてきたという奥の宮は、ベオクの王族の基準から比べれば驚くほどに質素だった。
 もちろん、どこを見ても希少な白い石で造られているし、絨毯や壁に掛かった絵画、彫刻に至るまで技を極めた職人が手がけたものなんだろうってのはわかる。
 それでもごてごてとした華美さは一切なくて、どれもさりげないものばかりで清楚な趣を一切壊してはいない。
 神使だ、皇帝だって言っても、ここに居たのはきっと普通の娘だったんだろうな。
 印付きとして生まれて、本当なら寿命だってベオクよりずっと長くて、それなのに元老院の都合で跡取りの印付きが生まれると用無しだとばかりに殺されていったらしい。
 ……本当に酷ぇ話だぜ。

「ここじゃ。セフェラン! 客を連れて参ったぞ」

 長い廊下を進んだ一番奥の扉の前でサナキが足を止め、中に声を掛けた。
 返事も待たずに重そうなほど銀細工が施された扉を開くと、そこは分厚いカーテンをひき、小さなランプ一つだけがつけられた薄暗い部屋だった。その中から、ひんやりとした深い森の中にいるような空気が漂ってくる。
 いくら呪歌を謡う力を失くそうが、黒鷺は黒鷺だってことだろう。

「ようこそ。鳥翼王様、そして鴉王様も」

 古いカウチからから立ち上がって白い毛皮の上に優雅に膝をついたのは、大国ベグニオンの宰相であり、そして俺たち鳥羽族の始祖とも言えるセフェランだった。
 大したモンだぜ。魔力なんざ欠片もねえような俺にも、こいつの声から空気に溶ける魔力の波動が伝わってくる。

「久しぶりだな。……元気そうで良かった」
「はい。ですが、あなたはあまり調子が良くなさそうですね。顔色がよくありません」
「人目があるんだ。そういうことはあまりズバリと指摘して欲しくないんだがね」
「鴉王! そなた、どこか悪いのか!?」

 ほほえみながらのセフェランの返事に、ネサラの言葉を遮ってサナキが大騒ぎを始める。

「サナキ様、そのように大きな声を出されてはいけませんわ。皆様の眠りを妨げてしまいます」
「う、うむ。わかっておる。じゃが…!」

 やれやれ、大事(おおごと)だな。
 それをシグルーンが諌めたが、なおも言い募ろうとしたところでそっとサナキの手を取ったセフェランが頷いた。

「大丈夫です。きっとこのお二人はそれが理由で私の元においでになられたのでしょうから。そうですよね?」
「おう、話が早くて助かるぜ」

 俺に向けられた静かなセフェランの視線に頷くと、まだなにか言いたそうなサナキにタニスも続けた。

「サナキ様。あまりに駄々をこねますとペルシス公と鴉王を困らせるだけですぞ。この場はペルシス公にお任せして、刺繍の続きでもいたしましょうぞ」
「だ、駄々などこねてはおらぬわ! ……じゃが、鴉王がセフェランに用があるのはわかっておる。それは、仕方がない」
「よくご分別なされましたな。ささ、では参りましょうぞ。それではお二人とも、どうぞごゆっくり」
「じゃが、タニス! 言うたからにはそなたにも刺繍はさせるぞ! 良いな!?」
「む、それは………サナキ様にお怪我させぬよう、全力で取り組みましょうとも」

 ぎろりと睨み上げたサナキに一瞬詰まったが、タニスは妙な気迫をみなぎらせて頷く。
 なんつーか……本当にベオクの女がするたしなみってのは苦手なんだろうぜ。
 この場合、笑ってもいいのか気の毒がるべきなのか悩むよな。

「ふふ、本当にサナキ様はネサラ様のことが大好きなんですわね」
「よしてくれ。この場だから良いが、妙な誤解をする輩が現れては困る」
「誤解……そうですわね。はい、心得ました。それでは私はお邪魔にならぬよう、退室いたしますわ。なにかあればどうぞお呼びくださいませ」

 眉をひそめて首を振ったネサラにほほえむと、シグルーンも優雅に騎士の礼を取って下がった。
 誤解、ねェ……。女の方が早く大人になるってのはラグズもベオクも同じなんじゃねえのか?
 そんな俺の気持ちを読んだか、扉が閉まる前に目が合ったシグルーンはほほえんだ唇にそっと細い人差し指を当てていた。
 はいはい、わかってるって。はしかで終わるようなものに、余計な茶々は入れんなってことだろ。

「鴉王様。腕を拝見してもよろしいですか?」
「腕?」
「はい。左腕です」

 だが、セフェランの一言でなんとも甘酸っぱい様子にゆるんでいた俺の口元は一気に引き締まった。
 もちろん、気持ちもだ。
 言われたネサラも同じ気分だったろうさ。言われて初めて思い出したように左の手首を押さえたネサラの横顔が、明らかに白くなった。

「ネサラ、袖をめくれ」

 俺もまさか、と思った。
 だが、ネサラがなにか隠してる可能性は否定できねえ。
 そうは思ったものの、自分の手首を押さえたネサラの指先がかすかに震えてるのが見えて、俺は意識して声を穏やかにした。
 隠してる可能性だけを考えちゃいけねえ。こいつ自身が一番確かめるのが怖いんだ。それを忘れちゃいけねえ。

「大丈夫だ。あの赤い痣はもうねえよ」
「…………」
「俺も知ってる。今朝も顔を洗う時に見たじゃねえか。だから、大丈夫だ」

 半分以上、でまかせだ。それでも、ネサラも袖をめくって顔を洗ったことを思い出したんだろう。
 少し気を取り直した様子で黒衣の袖を掴み、一息置いて一気にめくり上げた。
 思った通りだ。
 鷺ほどじゃねえが、白いネサラの腕にあの忌々しい赤い痣はなかった。

「……良かった。もしやと思いましたが、大丈夫なようですね」
「俺の『血の誓約』は国と国の間で交わされたもの。だから、キルヴァスと言う名の国が滅亡した今はもう関係ないんだろう?」
「はい。誓約書が燃え尽きたのは私も確認いたしましたし、あの誓約が再び悪用されないよう、その術も永遠に私が封じました」

 こうして見ると、確かに鷺の民だ。
 ロライゼ様やラフィエルに良く似た淡い微笑を浮かべるセフェランに頷くと、ネサラは小首をかしげて訊く。
 俺も訊きたかったことを。

「なら、どうしてこの腕を確かめた?」
「あなたの身体に、ガドゥス公の魔力が絡みついていたからです」
「…ッ」
「ネサラ」

 セフェランの言葉に、ネサラの顔色が変わった。
 鋭く息を呑んだネサラの肩を抱くと、震えもできねえほど強張っちまってる。
 くそ、またあいつか…!

「俺の…化身の力は、あいつが……?」
「あなたの力を封じているのはまったく違う者の魔力です。ガドゥス公ではありません」
「じゃあ、誰なんだ!?」
「これだけ歪になっていては、それを探るのは難しいでしょう。とにかく、あなたにかけられた封印を解きましょうか」
「そんなに簡単にできるのか?」
「わかりません。さあ、まずは眠ってください」

 一瞬声を荒げたネサラを変わらない微笑で落ち着かせると、セフェランはネサラの額にそっと青白く光る指先を当てた。
 古代語で唱えられた呪文はほんの一言だ。ネサラの膝が崩れ、慌てて腕を差し伸べた俺よりも早くセフェランが昏倒したネサラの身体を抱きとめる。
 さすがは黒鷺だな。リュシオンじゃもろともに床にコケるところだが、鴉の中じゃ体格のいいネサラを受け止めても倒れもせずに立ってやがる。

「なにをした?」
「スリープの術です。こういった類の封印を解くのは、本人の意識がない方が上手く行くことが多いものですから」
「ほお、杖がなくても使えるのか。そりゃ知らなかったぜ。便利だな」
「その杖も誰かが作っているから存在するということですよ」

 完全に落ちたネサラを引き取りながら言うと、セフェランはあっさりと笑って頷いた。
 そりゃそうなんだろうが、多分魔道士にとっちゃ大変なことなんじゃねえのか?

「こちらへ寝かせてさしあげてください」

 それにしても、薄暗い部屋だぜ。神官みてえな白い僧服姿だから良いが、もしこいつがネサラみてえに黒衣を着た日にゃ、俺の目には見えねえかも知れねえな。
 そう思いながらネサラを両腕に抱えると、俺はセフェランが小さなランプを片手に手招く狭い寝台に向かった。

「これだけ暗いと、あんたも見えねえんじゃないのか?」
「私は不自由はありません。魔力で夜目が利くようにできますから」
「ここが、代々の神使が使っていた部屋なのか?」
「はい。……いえ、部屋でもありますが……墓標、ですね」
「墓標? 墓標って、確かベグニオンの王家の墓は大神殿の中だろ?」
「はい。ですが、あちらに神使様方のご遺体はありません。理由も知らされず、若くして命を奪われた神使様方は、ここの奥にある隠し部屋に眠っています」

 セフェランは淡々と言いやがったが、それはとんでもねえことなんじゃないのか…?
 驚いて特に感情の浮かんでない横顔を見ると、セフェランは母親のような手つきでネサラの前髪をかき上げ、首の後ろに小さなクッションを入れてやりながら続けた。

「すべて私がこの国を去った後のこと……。取り返しのつかないことです。せめて私が呪歌の力を失っていなければ、もっとその魂をお慰めすることができたかも知れませんが」
「……呪歌だけじゃねえだろ。『唄』ってのは、時に祭りを盛り上げるし、気持ちを奮い立たせたり、人の心を慰めもする。それは聴く者も、唄う者も同じじゃねえのか?」

 そう言うと、セフェランはまるで意外なことを聞いたかのような顔をして目を丸くした。
 くそ、やっぱり似てやがるぜ。こいつの場合は髪が黒いし、リュシオンたちだけじゃねえ。ネサラやネサラの親父さんの面影まで重なりやがる。

「あんたも鷺だから仕方ねえんだろうが、俺にとっちゃ『唄』ってのはそんなもんだ。どこのお袋さんも赤ん坊に子守唄を聞かせるだろうが? それだって充分だろ」

 ガラでもねえこと言っちまったな。バツが悪くて頭を掻いてごまかすついでにネサラの服をくつろげてやると、セフェランは小さく笑った。
 今までのような生気の薄い笑い声じゃねえ。本当に楽しそうな声だった。

「ふふ…本当に、あなたは強い。鳥翼族の王に相応しい人だと、そう思います」
「本当に相応しかったのはあんただろうがな。黒鷺は言わば俺たちの始祖だ。俺たち鷹の身体を持って、鷺の魔力を持つ。無敵じゃねえかよ」

 これは嘘じゃねえ。もしも今でも純血の黒鷺が残っているなら、力だけで語れば黒鷺こそが鳥翼の王に相応しいと俺は思うぜ。
 だが、セフェランはそっと首を横に振って呟いた。

「心の弱い者に、王の地位は務まりません。黒鷺たちはいくら力を持っていても心が弱かった。だから今はもう、誰もいない。ただ私たちの血が、あなた方に流れて残っただけです」
「ほとんどは鷺と鴉にだがな。それより、どうする?」
「……まずはこの封印を解いてみましょう」
「レストの杖か?」
「同じ力です」

 ゆっくりと白く長い指で印を結ぶと、セフェランの唇から低い詠唱が漏れ始める。うつむいた拍子に、砂が零れるような音を立てて肩口を長い黒髪が滑り落ちた。
 淡く青い光がセフェランの指先から生まれて、まるで染みこむようにネサラの身体を包んで行く。
 次に現れたのは精霊文字だ。空中に光のインクで描いたように長い呪文が浮かび上がる。

「なんだ…?」

 その光の文字がネサラに重なり、消えた瞬間だった。
 意識がないはずのネサラの身体が浮かび、黒い翼が広がったんだ。

「ネサラ?」

 起きたのかと思ったが、違う。頭はがくりと垂れたままだし、大体、羽ばたきもせずに浮かべるはずがねえ。
 ひやり、と俺の背中に冷たいものが走った。
 ネサラの身体を蒼い光が覆い始める。化身の光に良く似たその蒼が、中心からゆっくりと赤を帯びて紫になった。
 血に似た、…いや、あの誓約の印の赤に似た、厭な色だ。大丈夫なのか…!?
 だが、こんな場面じゃうっかり声もかけられねえ。視線を向けた先のセフェランは、半ば目を閉じて一心に呪文を唱えていた。
 レストの杖と同じ力だとは言った。だが、セフェランの唱える呪文は明らかにレストの杖を使う時よりも長い。
 セネリオだってこの大陸じゃそうそう並ぶ者のいねえ腕を持つ大賢者だ。だが、そのセネリオが認めるこの大陸一の魔道の使い手であるセフェランが手こずるような力でネサラが封じられてるなら、それは一体誰なんだ…!?
 噛みしめた歯が鳴った。ネサラはまだ暗闇の中に浮かんだままだ。放っておくと誰かに連れ去られるような気がして、堪らずその腕を掴もうとした時だった。
 セフェランの手が先にネサラの翼に触れて、そこから金色の光が弾ける。
 それも一瞬だ。
 禍々しい赤を帯びた光が喰われるように震えて剥がれ落ち、深く蒼い夜の空のような光がネサラに戻る。
 まるで薄いガラスか氷が砕けていくような音が響いた。
 ゆっくりと黒い翼が力を失って降りてきた身体を、セフェランの腕が受け止める。
 それから蒼を帯びたネサラのものとは違う、純粋にただ黒い、深い闇のような漆黒の翼が広がった。
 まるで腕に降りてきたネサラを包み込むように。
 俺も初めて見る、セフェランの持つ黒鷺の翼だった。
 優雅な翼だ……。薄くてたおやかな、だがひ弱さは欠片もねえ美しい翼だった。

「本当に、黒鷺なんだな」
「出すつもりはありませんでしたが……引きずられました」
「引きずられた?」
「はい」

 そう頷くと、セフェランはもう一度ネサラを寝台に寝かせて深い息をついた。
 なんだよ、意味がわからねえな。

「鷺の力は失くしたと言ってたが、飛べるんだろう?」
「はい……。ただ、ここにいる間は私はベグニオンの宰相。翼を使うことはありませんが」
「セフェラン?」

 様子がおかしい。おいおい、まさか、今度はこいつが妙なことになったんじゃねえだろうな!?
 焦って肩を掴もうとしたんだが、その前にセフェランが顔を上げる。

「封印は、解きました。化身の力は戻っているはずです。……ですが、それでも鴉王は化身しようとしないかも知れません」
「どういうことだ?」

 それじゃ意味がわかんねえだろ。
 首をかしげた俺に一度首を振ると、セフェランは背中に現れた大きな翼を隠し、疲れたように寝台に腰をかけやがった。
 黒鷺とはいえ、体力は鷹ほどはねえはずだ。疲れたなら休ませてやりたいが、話だけは訊いておきたい。
 だから片膝をついて俯いたままの白い顔を見上げると、セフェランは憂いに満ちた濃い紫の視線を伏せて言った。

「デインに……行くのですね?」
「ああ。それが必要ならな」
「あなた方は、深い悲しみを見るかも知れません」
「それとネサラが化身しねえってのはどんな関係があるんだ?」
「それは、まだわかりません。ただ、そうかも知れないと思っただけですから」
「ルカンに対する恐怖からか?」

 ネサラの意識がねえから言える一言だ。俺がそう言うと、セフェランは痛いところを突かれたように目を見開き、また閉じた。
 そうだとも、違うとも取れる顔だな。
 ネサラは隠そうとしてたが、これぐらいのことはわかるさ。
 だが、この様子だとそれだけじゃないかも知れねえな……。

「私からはっきり申し上げられたら一番だとは思います。ですが、確証のないことは言えません。それは悪戯にあなた方を振り回す結果に繋がるかも知れませんから」
「わかった。まあ、こいつの化身の力を戻してくれただけでも充分だ。礼を言わせてくれ。有難うよ」
「この程度のことはお礼に値しませんよ」
「してもらったことは事実だろうが。それより、こいつをもう少しここに寝かせてやってもいいか?」
「はい。部屋も明るくしましょう。お二人とも、暗い場所はお好きではないでしょうから」
「そりゃ、見えねえからな」

 やっと立ち上がったセフェランに応えて笑って肩を竦めると、ようやくセフェランの顔にも笑顔が戻った。


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